ナースコールのボタンを、押せなかった。
かつては、その反対側にいた。臨床看護師として、一勤務のあいだに何度もコールに応え、廊下を歩き、水を運び、枕の位置を直し、明日の検査についてもう一度説明する。その日は、自分がベッドに横たわる側だった。そして、手が止まった。
「毎回看護師さん呼ぶのが申し訳ないな…」
病院で毎日、誰にも気づかれずに過ぎていく小さな場面である。しかし当時、病院経営コンサルタントとして働いていた澤田優香氏は、そこに構造的な課題を見いだした。病棟の外では、LINEやメール、Slackを使い、自分の都合のよいタイミングで非同期にやりとりしている。ところが病棟の中には、チャネルがひとつしかない。ナースコールである。緊急の用件も、そうでない用件も、同じ一本の線を通り、同じ多忙な一人の手を止める。病院のコミュニケーションは「日常のコミュニケーション手段と乖離している」——それが課題の本質だった。
2020年6月、コロナ禍の只中に、澤田氏は株式会社OPEReを創業する。
どの病院も逃れられない算数
日本は世界で最も高齢化が進んだ社会であり、その帰結を最初に引き受けているのが医療現場である。より多くの、より複雑な状態の患者が毎年訪れる一方で、それを支える医療者の数は逼迫していく。2024年4月からは医師の時間外労働に上限規制が適用され、制約は明確な形をとった。もはや、時間そのものが存在しない。
病院はこれに対し、記録のデジタル化で応えてきた。日本の急性期医療において電子カルテはほぼ標準装備である。しかし、病院が生み出しているものの半分は記録ではない。もう半分は説明であり、こちらはほとんど手作業のまま残されてきた。
一件の手術の前に何が起きているかを考えてみたい。患者は手技の内容、リスク、麻酔、食事制限、持参物、来院時刻、面会の可否を理解しなければならない。看護師や医師が口頭で伝える。不安を抱えた相手が記憶できるのはその一部で、次は家族に同じことを話し、翌週にはまた電話で同じ説明を繰り返す。年間に数百回繰り返される同じ説明を、院内で最も希少で高コストな人材が担っている。
情報は逆方向にも流れなければならない。既往歴、アレルギー、内服薬、問診、そして同意。待合室で紙に手書きされ、職員が電子カルテに転記し、誰かがあとで探し出さなければならない書庫に収められる。
これは通常の意味での技術課題ではない。きわめてコストの高い、コミュニケーションの課題である。
病棟から経営へ、そして再び現場へ
澤田氏が起業に至る道は、一冊の漫画から始まっている。中学生のとき、主人公の看護師に憧れ、その仕事を志した。実際に看護師となり、聖路加国際病院で臨床に立った。
そこで知ったのは、この仕事の意味と、その過酷さの両方だった。医療から離れるのではなく、より上流へ——「仲間が生き生きと働ける環境を整えていきたい」という思いから、病院経営コンサルティング会社へと移る。この選択が、彼女に稀な二重の視点を与えた。深夜3時の病棟の空気を知っていることと、病院の経営・予算・システム投資がどのように決まるかを知っていること、その両方である。
自身の入院経験が、最後のピースとなった。創業した会社の名は、その診断そのものを表している。OPERe——医療現場のオペレーションを刷新するという意味だ。掲げる目的は、テクノロジーによって医療現場の運営を作り替え、医療サービスを縮小させるのではなく持続・発展させることにある。
そして看護師時代からの確信が、今日に至るまでプロダクトの形を決めている。「患者さんのことを一番考えているのは主治医や看護師さん」。OPEReは、その関係をソフトウェアで置き換えるために設計されたのではない。その関係に必要な時間を取り戻すために設計されている。
患者が「すでにいる場所」で届ける
OPEReが提供する「ポケさぽ」の出発点は、地味だが決定的な洞察にある。最も使われるアプリとは、インストールしなくてよいアプリだということだ。病院専用のアプリをダウンロードしてもらうのではなく、ポケさぽはLINE上で動く。院内タブレットにも対応し、そちらを好む患者にも届く。
患者は院内でQRコードを読み取る。そこから先、ポケさぽは患者一人ひとりのタイムラインに沿って説明を配信していく。入院案内、検査の準備、手術説明が、それぞれ必要になったタイミングで動画やPDFとして自宅に届く。自分のペースで、納得するまで何度でも見返せる。4回目の視聴のために、誰の手を止める必要もない。
この経路は双方向である。アナムネや事前の問診は、待合室のクリップボードではなく自宅から回答でき、未回答者には自動でリマインドが飛ぶ。必要な患者には多言語で対応し、得られた情報は孤立したデータベースではなく既存の電子カルテへと流れ込む。2026年2月には新機能「AI窓口」を追加した。RAGを用いた生成AIが、その施設固有の説明コンテンツのみを参照して、24時間365日、患者の定型的な質問に回答する。データは国内保管とし、日本の医療情報ガバナンス要件に対応している。
設計上の規律に注目したい。AI窓口は医学的助言を創作しない。あくまで病院が承認した自院のコンテンツから答える。ポケさぽは電子カルテの置き換えを求めない。そこへ情報を流し込む。工程が一つ増えるだけで臨床現場がツールを捨てることを、知っている人間が作ったソフトウェアである。
「届けた」ことは「伝わった」ことではない
より難しい課題、そしてOPEReが次第に軸足を移している領域が、理解の確認である。病院は「説明用紙を渡した」ことを証明できる。しかし「患者が理解した」ことは、通常証明できない。にもかかわらず、インフォームド・コンセント、安全な退院支援、治療アドヒアランスのすべてが、その理解に依存している。
説明をデジタルで届けているからこそ、ポケさぽはそれを観察できる。何が視聴され、何が開かれないまま残り、どこで回答が止まったのか。これは説明を一回性の出来事から測定可能なループへと変え、同意を署名から証跡に近いものへと変えていく。
同社が公表している数字も同じ方向を指している。ポケさぽの導入は全国130以上の医療機関に達し、急性期病院と産婦人科領域を中心に広がっている。患者満足度は95%を超え、導入施設の92%が業務改善を実感していると報告されている。この二つの数字が同時に動くことは稀である。多くの医療ソフトウェアは、患者を犠牲にして施設を楽にするか、その逆になる。OPEReはこの姿勢を、日本の商いの古い言葉である「三方よし」として語っている。
インフラになるということ
コミュニケーション基盤の価値は、それがつながる先の広さで決まる。OPEReはこの2年、自前で囲い込むのではなく、外へ接続することに時間を使ってきた。
2024年3月にはセイコーエプソンと資本業務提携を締結。ポケさぽとEpson Connectを組み合わせ、日本の病院がスマートフォンと紙の混在で動いているという現実に橋を架けた。「Gakkenメディカルクリップ」との連携により、患者説明動画のライブラリを拡充。そして2026年6月、セイコーソリューションズとの実証実験を開始した。電子同意サービス「コンパクトイン」とポケさぽを連携させ、患者がQRコードを読み取るだけで、法令に準拠した電子同意をLINE上で完結できる。別アプリも追加ログインも不要で、誰かが綴じたり探したりする紙の同意書も存在しない。
いずれも同じことを主張している。OPEReが取ろうとしているのは、一つの機能ではない。基盤システムが何であれ、病院と患者のコミュニケーションが起きる「場所」そのものである。澤田氏はその射程が病院の壁を越えることを明言しており、製薬企業や医療機器メーカーと医療機関をつなぐ構想を描いている。これらの情報が医療者と患者に届く経路は、数十年ほとんど変わっていない。
Vertex Ventures Japanの視点
Vertex Ventures Japanは2025年6月、OPEReのプレシリーズAラウンド(総額4億円)に、ジャフコ グループ、DNX Venturesとともに参画した。調達資金は院内コミュニケーション機能の開発と開発体制の強化に充てられている。
私たちがこの会社に惹かれた理由は三つある。
第一に、後から作ることのできない種類のファウンダー・マーケット・フィットである。澤田氏はベッドサイドに立ち、病院の経営会議に座り、そしてベッドに横たわった。医療は、外側から設計されたソフトウェアに厳しい。臨床医に30秒の余裕があると前提した美しいツールの残骸が、いくつも横たわっている。OPEReのプロダクト判断には、その余裕がないことを知る人間の視点が一貫している。
第二に、市場が待ってくれていないことである。日本の人口動態、医師の時間外労働規制、急性期医療にかかる負荷は、いずれも予測ではない。すでに起きている現在の条件であり、それが患者コミュニケーションを「あったら良いもの」から予算項目へと変えている。
第三に、この会社が静かに積み上げているものである。ポケさぽの上で届けられ、理解された説明の一つひとつが、患者が実際に医療情報をどう受け取るのか、どの瞬間に理解が崩れるのか、どの資材が機能するのかという記録になっていく。これは容易に複製できない資産であり、時間とともに厚みを増していく。
「多くのヘルステックは、記録をデジタル化します。OPEReは理解をデジタル化し、さらに患者の医療を左右するまさにその瞬間に、理解できているかを確認します。患者が増え、医療者が減り続ける医療体制において、この閉じたループは「あれば良いもの」ではありません。すべての病院がこれから必要とするコミュニケーションハブの、その土台そのものです。」
黒川 尚徳
ジェネラル・パートナー
Vertex Ventures Japan
Vertex Ventures Japanは、国内の難しい課題をグローバルに通用する事業へと転換する起業家を支援している。そして、この課題ほど輸出可能なものは少ない。日本は単に、韓国、台湾、中国、そして欧州の多くが向かっている人口動態上の地点に、最初に到達しただけである。より少ない医療者でより多くの患者を支える方法を、どちらの側にも我慢を強いることなく確立した医療システムは、やがて世界が必要とするものを手にしていることになる。
OPEReは自らの目標を「患者と医療者のコミュニケーションハブになる」ことと定義し、その目的をさらに簡潔にこう語る。伝わる医療を、社会の新常識に。
始まりは、病院のベッドで、ボタンを押さないことを選んだ一人の看護師だった。
OPEReの詳細はこちら:
https://www.opere.jp/

